ねるねるねるね

主に感想考察とダイレクトマーケティング。そこらへんにいるジャニーズWESTのファンです。

映画「溺れるナイフ」のあれこれ

映画「溺れるナイフ」を公開初日と先日と2回見ました。

「神さん」との出会い、喪失、そして永遠の「神さん」の獲得。

1回目は誰かを、何かを、神と称え、喪失し、絶望し、真の翼を授かる10代少女を通して自分の中で腐敗させ、そのまま臭いから蓋をしておいた全能感や「かみさま」の存在を今一度腹の底にぐりっとねじ込まれた感覚でした。2回目はコウちゃんの「神さん」と一体になり浮雲町にとどまり続ける絶望に思いっきり殴られて帰ってきました。2回ともラストシーンで何だか永遠を勝ち取れなかった自分に対するカタルシスに耐え切れなくて涙がぽろぽろこぼれてしまった……あのきゅーっと胸を掴まれる感覚はなんなのだろう……

 

 以下つらつらと。

○火祭りの夏芽とコウちゃん

襲われる夏芽と一人床に寝そべって泣く夏芽、そして夏芽を襲う男を殴り、夏芽を救おうとするコウちゃんと火祭りで踊るコウちゃんが混ざりあう終盤の火祭りのシーン。夏芽が襲われ、コウちゃんが救うシーンが本筋のストーリーであり、床に寝そべる夏芽は夏芽の心理、火祭りで踊るコウちゃんはコウちゃんの心理を表すシーンなのではないかなぁ...なんて思っています。

魂が吸い込まれるかの如く黙々と作り込んだ狐の面を被り、松明を振るい、激しく踊るコウちゃん。その仮面は「お前の身を捧げることになる」と神主として神に仕える父に忠告されるほど神聖でおぞましいものだった。そんな仮面を途中で彼は外し、憑りつかれたように力強く踊る。「仮面」は神に扮する為に着けるものであるはずなのに彼は途中で外す。

父の忠告は当たってしまった。コウちゃんと神さんは仮面をはずした瞬間、一体となったのだ。まさに身を捧げ、コウちゃんは夏芽の神さんとなったのだ。仮面を外したコウちゃんは燃えたぎる炎とと一体となって踊る。今度こそ夏芽を脅かす男を倒す。

夏芽は1人でコウちゃんを求める。涙を浮かべ、 コウちゃん、とつぶやく。あいつを殺して、男を殴るコウちゃんにつぶやく。そしてコウちゃんは松明を自身の身体の中心に立て跪いた。儀式は完成した。夏芽を犯す者は、夏芽を苦しめる者は、この世からいなくなった。

そして夏芽は永遠の神さんを獲得して元の世界へと旅立っていった。コウちゃんは夏芽の神さんとなり浮雲で人生を全うするのだろうか。

 

◯大友くんと重岡くん

大友くんという枠に重岡くんがぽたぽたーって重岡くん色の絵の具を垂らしていって少し枠からはみ出して滲んだ姿があの大友くんだったのかな、と感じました。

椿のシーンが印象的ですけど、個人的にはお見舞いに行ったシーンの「好きになんないよ?」「おう、俺友達でも良いよ」のやりとりが好きで。「好きになんないよ?」ってなんであんなに魅力的なんだろう……そのときめきを塗り重ねるかの如くその後友達でいいって言いつつあんなことしちゃう大友くんずるい...。あと長回しのシーンばかりの中でセリフを噛んでいる部分が多々あるのですが噛んでいるセリフがちょうどリアルな生活でも感情がぶれて噛んじゃいそうなものばかりなんですよね。偶然なのか、それとも重岡くん自身の感情のぶれで噛んでいるのか真相は謎なんですけど、より大友くんがすぐそこにいる感覚になれました。ちゃんとスクリーンの向こうで呼吸をしている人なんだなって耳と目で感じられる。

インタビューで役作りの話になると重岡くんは「自分の中に大友がいる」というような内容のお話をよくしていたように思います。役作りという言葉は文字通り「役を作る」作業な訳で、あくまでフィクションを自分の頭や身体で作り上げていくものなのかなっていうイメージがあって。けれど重岡くんの役作りに対する姿勢は重岡大毅というノンフィクションから作り上げられたものなんですよね。だからきっと眼差しにも声にも身体にも体温を感じる仕上りになったのかな、とも思うし、大友くんと重岡くんの境界線がぼやけたのかなとも思います。重岡くんがこの役を頂いた、と聞いてめちゃくちゃ羨ましかった。照史くんは男の子からすっ飛ばして男になった姿しか残っていないから今の私には男の子を超える瞬間の姿を知る術がほとんど無いから。重岡くんと重岡くんのファン、そしてこれから重岡くんに出会う全ての女の子が大友勝利を共有して生きていくのかと思うとハンカチ噛みちぎりたい気分だったけど、きっと照史くんが同じような役をもらったとしても芝居との向き合う形が違うから残したものは変わったのかな、だったらまぁいいか〜なんて諦めちゃいました。そのぐらい、大友くんは、重岡くんは特別だった。

 

○神さんとしてのコウちゃん

夏芽の視点から見るとコウちゃんは出会った時から別れの時まであの事件の後もずーっと「私の神さん」だったように思います。どんな時もコウちゃんの背中を追って、追い越しても追いつかれて追い越されて。けれどコウちゃんは1度地に堕ちた。誇り高く生きることは出来ないし、力を持つ夏芽の背中を押し続けることも出来ないと悟った。そして2度目の火祭りでコウちゃんは浮雲の神さんになってしまった。もう浮雲の神さんと生きるしか無い。私は夏芽のように遠くに行けるような特別な力を持っている人間でもないし、コウちゃんのような雰囲気を纏う人間では無いけれど、己への絶望と何かに縛られて生き続ける苦しさに胸が詰まる気持ちでした。いくら夏芽が前に進もうが、夏芽が神さんと呼ぼうが全く一歩も進めないどころか両足を縛れている人生。「永遠」の力を自分自身の力として得られなかった人生。あぁ、なんて恐ろしいのだろう。だからこそラストシーンでコウちゃんが笑っていたから泣いちゃうんだろうな。

 

全能感も、私には神さまがいる、という感覚を全て捨て去ってしまって地に堕ちた感覚も実感して、永遠を得ることが叶わないと知ったのが最近だったからこそ「溺れるナイフ」を通して身体に伝わる閃光が眩くて痛かったのかな、と思います。いつかまたこの映画を見たらもしかしたら鼻で笑ってしまうかもしれないし、また違う痛みを感じるかもしれない。もしあと5年早く出会っていたら、閃光にそのまま焼き尽くされてしまったのかもしれない。

山戸監督がこの映画を世の中に産み落としたこと、菅田くんが小松さんが重岡くんが上白石さんが演じてくれたこと、その事実に感謝したいと思います。